じんけんSCHOLA

10月に予定されていた『はじめてみよう!これからの部落問題学習②』という講座が台風の影響で延期されていたものに参加しました。

今回のテーマは「差別語について整理する」ということ。差別の問題に立ち向かっていく際、自分の言葉で語れるように、という目的でこの講座が開かれました。

差別語についてこれまでの差別の歴史を振り返ると、差別語とされる言葉を使うと、文脈に関係なくすべて差別だというように糾弾され、謝罪・撤回させられてきたという状況が長く続いたそうです。そして、それによって、差別的だとされた語がどんどん新しい言葉に代わったり、差別の問題について語ることがタブー視されたりする流れにつながってきました。

講師の方が全体を通して何度も主張されていたのは、「差別語の問題は、言葉自体ではなく、それがつかわれる際の“差別意識”に立ち向かっていかなくてはならない」ということ。

たとえば、特定の職業を表す言葉が差別的だと糾弾されることが多かったために新しい言葉に代わっても、結果的に新しくできたその言葉にも、職業差別的なまなざしが向けられるようになり、今ではさらに違った言葉に代わっていっているという話がありました。

たとえ言葉自体を使わないようにさせても、特定の職業に対する偏見や差別意識というものが変わらない限り、新しくつけられた言葉に再び差別的なニュアンスが付与されるというような繰り返しが起こってしまいます。それは、差別語を使わせないようにしようとしている人たちの目指すべき状態ではないでしょう。

だから、差別的な意味を持つとして問題視される言葉について考えていくためには、表面に出てきている言葉ではなく、その背景にある差別意識や、その言葉がつかわれる文脈についてしっかりと考えて、そこと向き合う必要があるということでした。

後半は、質疑応答の時間を用いて、部落問題学習に「部落」という言葉を使うかどうか、ということについて、参加者もじんけんSCHOLA関係者も含めた議論になりました。

現在はインターネット上に間違った情報や差別をあおる表現が溢れているために、学校で中途半端に部落について知ってしまうと、子どもたちが誤った情報にアクセスしてしまうのではないか、という懸念が教育現場でされているそうです。

しかし、そのような間違った情報に出くわしたときに、「ちょっと待てよ」と立ち止まれる力、あるいは「これは差別だろう」と気づくことのできる力は、教育によってしか与えられないのではないか?それこそが教育の役目ではないか?という意見から、

中途半端に言葉だけを覚えて帰らせるのではなく、差別や偏見を含む様々な情報があふれかえっている現状も含めてしっかりと教えるべきだろうというような話になっていました。

差別の問題について語るという比較的身近なことに関する話題で、とても勉強になった回でした。

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