人権スコラ~出生前診断~

世人権のチラシの印刷とか、全体会の配布資料とか、1月の講座の企画書とか、やらなあかんことが山積みやのに、公募エントリーにてんやわんやしてます。

19日は人権スコラに参加しました。今回は障害者問題がテーマで、「出生前診断」についてのディスカッションでした。

豊中の同解協の会長をしてくださっていた堀智晴さんがファシリテーターを務めて、牧口一二さん、ダウン症や脳性麻痺の子を持つ保護者、介護職についてる方、私立中学の教員など、それぞれの立場からの参加で、ものすごく勉強になった回でした。

障害のある子のためにと、教員が子どものサポートにつくけれども、それをしてしまうと、子どもたちの関わりや関係性が生まれないことにもなる。「〇〇ちゃんの世話は先生がするもの」と、実際に一年生の我が子はそう解釈している節がある。

そして、他にも教室にはサポートの必要な子がいるのに、教員がサポートするのは、支援学級の子だけだったりと、運営上にも問題があることなどがわかった。

保護者からは、子どもが生まれてダウン症ってわかったときは、羊水検査をしなかったことを後悔したりもしたけれど、

今となれば、検査をしなくて本当に良かったと思うと話された。

もうひとりの方も、長女がダウン症で生まれてきたからか、二人目を妊娠したときに、夫の両親などから「羊水検査をしたほうがいいのでは」と言われたという。私もそうだったけれど、羊水検査をしたところで、結果が陽性だったところで、産むことには変わりはない。

きっと連れ合いのご両親は、ある種の親切心(ありがた迷惑であり、差別なんだけども)から、羊水検査をしたら?と言ってきたのだろう。

しかしそれは、今現在、ダウン症として生きている長女の存在を否定することにもなる。

「長女をおなかに戻して殺すことなんかできない」その言葉にグッときた。

息子さんが脳性麻痺だという女性も、脳性麻痺だとわかった瞬間から、公園にも行けなくなり、息子は何もできない、自分の人生は、この子にために費やさないといけないんだと考えていたそうだ。しかし、地域の無料の幼児教室に知人から誘われて渋々参加すると、息子が一番ノリノリで言葉を発し、歩けはしないものの、ぴょんぴょん飛び跳ねて、ものすごく楽しんでいたという。「自分自身が一番、息子を差別していたことに気づいた」という言葉に思わず泣いた。

妊婦の不安を出生前診断という検査で取り除こうとしているが、不安はいつだって誰だって持っているものだ。

私も二人目の妊娠は不安しか頭になかった。それは「障害を持って生まれてきたらどうしよう」ではなく、とにかく漠然とした不安が常に胸のなかにあった。

検査で陽性が出た人のほとんどが中絶をしている現実、その優生思想の根深さや障害者の排除を「妊婦の自己責任」という言葉で片づけようとしていることに恐ろしさを感じる。NIPTの検査そのものを「検査する権利がある」とする倫理観や「出生前診断をめぐるビジネスが赤字になるはずがない」という価値観は、やはり問題があるのではないだろうか。

障害のある人との出会いや繋がりが非常に大事だと思う。

きっと私も、自分が日本人で生まれて、身内に障害のあるいとこがいなかったり、部落の人と出会っていなければ、差別する側の人間になっていたかもしれない。「人との出会い」というのは本当に大切だ。

次回、二日は「障害者権利条約」についてです。

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