完本「春の城」 石牟礼道子

「半世紀をかけて完成した大河小説の完全版」「畢生の対策」とオビに書かれているとおり、石牟礼道子、渾身の作品だ。関係地域をフィールドワークした記録「草の道」と本編「春の城」、後日談と解説などから成る880ページの大著だ。構想について、本書の中のインタビューでこう言っている。

―天草・島原の乱を書こうと思ったのはいつごろから。

「根っこには水俣病にかかわった時の体験があります。昭和46年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではなかったかと感じました。機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話も出ていた。もし相手に飲ませるのなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちではなかったかと。それから長い間、乱のことを心の中で温めていました。ろう城側の記録は残されていないんですが、当時の名もない人たちの思いを書ければと考えています。(1998.1.3)

石牟礼道子が生涯をかけた水俣病闘争と「天草・島原の乱」とはひとつながりなのだ。その意味するところを巻末の解説で赤坂真理が解き明かしている。

「水俣病を理解するには、島原の乱を理解しなければならない」と石牟礼道子はかつて語ったことがある。その意味が、ようやくおぼろげにわかってきた。水俣病闘争でチッソ本社前に座り込みをしたとき、機動隊に囲まれ、原城で包囲されたしまばらの乱の民衆を想起した、とも語っているが、それだけの意味でもないだろう。そこで島原の乱を想起できる、というのがまたすごいのだが。

≪日本の近代を理解するには、島原の乱あたりから見なければわからない≫と言ったのだと私は理解していた。が、正直、そこまでに射程の長さは、私には現実味がなかった。「西南の役」までは、まだわかった。戊辰戦争の終りとしての、西南戦争までは。日本の近現代のひずみ、たとえば1945年の破滅として表現されたことが、明治維新のひずみにすでにセットされていたのでは?ということは、少し勉強すれば直観できる。が、島原の乱、とは?私にはわからなかった。

それは、土地柄もあるのかもしれなかった。島原が遠いというのではなく、逆に、私の育った東京が辺境なのだ。今の日本の中心のようでいて、実は辺境の、歴史が直接生成された場とは、遠い土地なのだ。逆に、辺境、端っこ、と見られる土地が、異世界と触れ合い、混じり合って新たなものが日々生まれる、最先端だった。最前線だった。歴史は、水俣や、島原で、最も濃く生成され、動いた。中央は、「結果の場」である。たぶん。ならば、「最先端」にいる人に聞くのが、歴史の理解には最も早い。そうか、辺境こそが最先端であり、新たなものが日々生まれ、歴史が創られる場所であり、水俣や島原はそういう所なのだ。中心からは見えないものが、周縁からは見えるというが、歴史にも同じことが言える。

同じく解説で、田中優子は「一揆」に至る「苛政」について書いている。

島原天草一揆は百姓一揆でもあり、同時に切支丹の信仰を守るための戦いでもあった。彼らが暴力にさらされ、人として自由に生きる権利を失っていたのは事実だった。島原藩・松倉家の課した極端に荷重な年貢、拷問、処刑。天草を領有していた唐津藩・寺沢家のおこなった石高偽装による重税など、江戸時代初期の藩主たちが功を焦るなかでおこなった苛政の中でも、島原天草の状況は常軌を逸していた。

島原天草一揆後、松倉勝家は斬首となり、寺沢堅高は自害の後お家断絶となる。この場合苛政とは、重税だけの意味ではなかった。秀吉による九州平定後、1596年から97年に、有馬と大村の教会約130が破壊焼却され、26人が処刑されている。1612年には幕府が禁教令を発令し、有馬晴信は自刃して果て、そこから斬首、火刑が始まった。

このような状況下で自らの内面(信仰)の自由を屈辱的な状況で捨てさせられることも苛政である。信仰心を切り刻み、魂までも焼き尽くさんばかりの幕府権力の常軌を逸した苛烈な弾圧に晒された人たちの苦難はまさに想像を絶するが、それでも折れずにあったことが心を撃ち、まぶしい。

そして、石牟礼道子は、「納戸仏さま―全集版あとがきにかえて」で記している。

島原の原城といえば、私にとってはただならぬところである。年寄り、女子供を含めた3万7千もの一揆勢が原の古城に立てこもり、幕府軍12万を迎え討って全滅した。寛永十五年、幕府は、女子供といえども一人残らず撫で切りにせよと命じた。天草の人口は半減したと記録は伝える。いったいどういういきさつで、ただの百姓たちが、はるばるやってきた幕府軍を迎え、最後まで屈しなかったのか。三代将軍徳川家光の時代である。

追討軍の総大将、初代板倉重昌は戦死、ついで松平信綱となった。邪教を盲信する百姓ばらとあなどられていた原の城を落とすのに近代兵器が持ちこまれた。信綱配下で、鉄砲・玉薬等の責任者として着任したのが、三河武士、鈴木三郎九郎重成である。彼は、事件終結後、亡地となった天草の復興を命じられて死者たちを手厚く弔い、奉行寺とよばれる四ケ本寺その他の寺社を建て、生き残りの島民が暮らしてゆけるよう田畑をよみがえらせた。この島のことをどう考えればよいか。どういう人々が生き残っていたのか。この人々に、鈴木重成はどう接していたのか。何に心をうたれていたのであろうか。

やがて江戸の自邸にもどり、この島の石高半減を願い出て切腹するまで、彼は天草の人々の何に魂をゆり動かされていたのだろうか。それまで接し侍身分者たちとは、まるで異なる魂美しい人間たちを、この島で発見したのではないか。今もテーマとしてわたしの中にのこっている。 「島原・天草一揆」には興味深い事柄がいくつも含まれているが、鈴木重成の話もその一つだ。仕える殿様のために腹を切る武士はあっても、民・百姓のためにする者があったろうか?

重成は何ゆえにその仕儀に及んだのか。何をして彼をそうさせたのか。人間としての哀しみとやるせなさ、心を揺すぶられる感動を覚える。

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