ハンセン病隔離政策によって奪われた人権

29日は世界人権宣言71周年記念豊中集会でした。今年は「ハンセン病隔離政策によって奪われた人権~ハンセン病回復者と家族がおかれている実態と課題~」というテーマで、ハンセン病回復者支援センターコーディネーターの加藤めぐみさんと、ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会で、豊中在住の山城清重さんにお越しいただきました。

前半は加藤めぐみさんから、ハンセン病の歴史や無らい県運動についてお話いただきました。

センターが元解放会館ということで、部落問題も絡めてお話くださった。

大正時代に、部落地名総鑑ともいえる被差別部落とハンセン病患者の集住地区を調べさせたものが見つかったという。奈良県においては、世帯名までが記載されていた。

病気や障害がある人は生まれてこない方がいいという優生思想や、そういった人たちは病院や施設に行けばいいという考え方が今なお根強くあります。ハンセン病そのものは日本で発症する人はほとんどいません。しかし、長年に渡り、療養所で生活を強いられたハンセン病患者や、家族がハンセン病だとわかった途端に、職を失ったり、物を売ってもらえなかったり、入浴を拒否されたりという差別を受けた家族もいました。

大阪では数多くの書類が見つかり、中には豊中市の保健所に、「あの人はハンセン病ではないか」と通報したハガキも見つかっている。当時は「無らい県運動」といって、ハンセン病らしき人を見つけたら、自治体に通報するようにと勧められていた。その行為が非人道的だという感覚はなかったのだろうか。それが「お国のため」「ハンセン病患者のため」という感覚だったのだろうか。

療養所では、結婚の条件に断種や堕胎が実施され、子どもを産み育てることもかなわなかった。加藤さんのお話のあとは、支援センターが制作した元患者さんからの聞き取りをしたDVDを見せてもらったが、胸が苦しくて苦しくてたまらなかった。支援センターで購入できるので、ぜひ購入してご覧いただきたい。

そして今現在、豊中に住んでらっしゃる山城さんのお話だった。「旅行に行く」と突然父親に連れていかれるも、車内はカーテンを閉め切った状態を不思議に思い、着いたところが虫明港だったという。手紙のやりとりのあった妹さんが結婚すると知り、自分の存在がバレて結婚が破談になったらいけないと、自ら連絡を絶ち切った。

社会復帰をしたものの、人も会話をせず、病院にも50年間行かず、そしてお兄さんがご存命だとしり、57年ぶりに今年の夏、里帰りをされたのだ。今は名前を出して講演活動も積極的に行ってらっしゃるが、これまでの人生を想像すればするほど、ことばに詰まる。

隔離政策を推し進めた人たちも、無らい県運動に積極的に参加した人、ハンセン病だと判明した家族を差別をした人たちは今何を思うだろう。

愛の10万人運動、不幸な子どもが生まれない運動、そういった優生思想の根深さは現在の出生前診断にもつながる問題ではないだろうか。

ハンセン病問題はまだ終わっていない。

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