部落問題の今とこれからの人権教育
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原点となったリバティおおさか
皆さんこんばんは。ご紹介いただきました、宮前千雅子と言います。特に今気になることということで、「寝た子を起こすな」という考え方や、特別措置への誤解、あとネット上の問題など、そういうものに焦点を絞りながらお話を出来たらという風に思います。どうぞ、よろしくお願いします。
自己紹介としましては、今もう休館になってしまいました大阪人権博物館(リバティおおさか)に97年まで勤務していました。そのリバティおおさかで、様々なことに関わりだしたのが、今、いろんなことに関わっている原点になっています。
今、活躍してるかどうかはわかりませんが、豊中市の総合計画の審議会、男女総合参画審議会、同和問題解決推進協議会の委員をさせていただいています。
今年の2月には「バリバラ」という番組で、部落問題を2回取り上げまして、そこに出てました。第2弾も、2週にわたって部落問題を取り上げて放映される予定です。(放送終了)
コロナによる差別事象
今、新型コロナウイルスにまつわる差別事象が後を絶たない感じです。私は京都産業大学に非常勤講師に行ってるんですが、ちょっとしたクラスターが出たので、「大学に火つけるぞ」とか、「学生の名前教えろ」とか、色々な脅迫めいた働きかけがあったのは、皆さんお聞きかと思います。
特にその前期の受講生に深刻だったんですけども、アルバイト先で、お客さんから「ここに京産の学生アルバイトいるのかって言われるんです」って。実際にバイト先からもう来なくていいって言われたという風なことも聞きました。
また別の大学では、ちょっと収まったので帰省しようと思って、中国地方から大阪に来ていた大学生が親から帰省を拒否される。なぜかというと、大阪からウイルスを持ち込んで、地域の感染者第一号になるととんでもないことになるということです。親からも差別されているような気がして、どうしたらいいねんと。
いいか悪いかを疑わなかった無らい県運動
そんな不安な中、自粛警察ですよね。これはハンセン病問題の無らい県運動にすごく構図が似ていると思います。自粛警察は国が自粛しろと言ってるから、それをしていないところに脅迫めいたものを置いたり貼り紙したりするわけですよね。
無らい県運動も、ハンセン病の患者さんを、とにかく療養所に隔離していくという国の施策に、いいか悪いか一切疑わずに、市民も協力していくという構図がありましたので、国家施策がどんな意味を持つのかとか、人々にどんな人権侵害の可能性を持つのかということをまったく意識せずに、やみくもに協力していくっていうのは実は危険な面もあるということを私たちは知らないといけないんじゃないかなと思いました。
また、地域で自分がこんな病気に感染したって言って生きられないっていうのが、どれだけその人に不安な気持ちにさせるかっていう風なことも、私たちは想像力をもっともっと持ってやっていかないといけないんじゃないかなと思っています。
言える環境の整備
隠して生きて行かなければならないというのは部落問題にもありますが、ストレスなんですね。もちろん、言わなあかんことではないですけど、言おうと思って言える環境が整っていることが実は理想なわけで、常に「隠す」ということを強要される社会というのは本当に息苦しいことだと思うんです。コロナウイルスの差別事象から、いろんな人権問題との共通項も見えてくる部分もあったりします。
今日の話は大きくは3つの内容で構成しています。1つめは、私が分析したわけじゃないんですけど、人権についての市民意識調査から市民の部落問題意識についていくつかご紹介するところです。そこに現れているところから、「寝た子を起こすな」論についてのグループワークをしていただいて、3つ目が、部落問題とこれからの人権教育ということで、すごく大きなテーマとなっているんですけど、私が最近気になることということで、お話をしようと思っています。
部落問題の認識
一つ目の豊中市民の部落問題認識はどうなのかというところです。
人権についての市民意識調査結果はインターネットで観ることができますので、是非興味のある方は豊中市のホームページから市民意識調査のPDFにアクセスしてください。
まず、人権侵害について尋ねた項目からみていきます。次のようなことが人権侵害に当てはまると思うかどうか、尋ねています。女性ということで勤続年数が男性よりも給料や昇進に低い評価を受けることや、障害のある人が結婚や子育てに周囲が反対すること、在日外国人の地方参政権を認めていないことなど、いくつかある中に、結婚に際して相手の出身地が同和地区かどうか、部落かどうかを調べることというのも含まれています。
これでみていくと、人権侵害に「当てはまる」、「やや当てはまる」を足すと6割以上が、結婚時に相手の身元調査みたいなことをすることが人権侵害だと考えている。
ですが、「わからない」という人が一定程度いますし、トータルで11%の人、結局10人に一人は人権侵害に「当てはまらない」という風に答えているというのも気になります。皆さんはどのように思われるでしょうか。
そして次は、身近な人権問題についてどう思うか、というものです。自宅近くに障害者の作業所やグループホームの建設計画が持ち上がった場合は、反対するかどうか。
また自分が住む地域に外国人が住むと、治安や秩序が乱れるという気持ちがあるかどうか、それらの中に2つ部落問題にかかわる項目があって、「同和地区の校区には引っ越したくない」というものと、「同和問題はそっとしておけば自然になくなる問題だから、特に教育とか啓発などはしない方がよい」ということについてどう思うかということなんですね。
この、「部落を含む校区に引っ越したくない」という人は43%います。二人に一人に近づく数値です。「こだわらない」というのはわずかに23パーセントくらいで、まだまだ市民の意識の改善点があるんじゃないかなと思います。「寝た子」は両方とも合わせると25.6%なので、4人に1人は「寝た子」を支持している。大体これ、どこの意識調査でもそうです。2割から3割くらい支持者がいます。
あともう一つありまして、これは同和地区出身者との結婚を反対されている人に対する態度。結婚しようと当事者は思ったんですけど、反対される。それに対して、相談されたときにあなたはどんな風に答えますかというものです。これでみていくと、「積極的、力になってあげるよ」というのが大体4割ぐらいですね。前回とほとんど変わりません。
「消極的、慎重に考えた方がいいよ」っていうのは31%で、あんまりこれも変わってないです。「どういえばいいのかわからない」がちょっと増えている、そんな感じです。分析はよくなってるとか悪くなってるとかあんまり書いてないんですけど、私もよくもなってないし、悪くもなってないという風な感じは受けています。
課題の無理解や誤解の多さ
次が一番気になるところの自由記述です。
例えば、女性問題についての自由記述自体は13件しかありません。障害者問題でも12件、在日外国人問題でも13件です。でも部落問題の43件っていうのは、まずダントツで件数が多いんです。ただ、こういうところに意見を書く人はあんまりいいことを書かずに、なんか文句がある人が書くことが多いので、致し方ない部分があるにせよ、同和問題を教えるからダメなんだというような意見が15件あります。さらに特別措置は逆差別ではないかとか、優遇があると聞いたというのが10件です。女性問題に関する優遇じゃないかという記述は4件です。障害者も本人や家族が甘えてるんじゃないかとかそういうのがあったとしても1件です。在日外国人のいわゆる、外国人の生活保護が不正受給だとか、全然そんなことないですけども、そういう風な意見は2件です。いずれにせよ課題の無理解とか誤解の記述はダントツに部落問題が多いと言って間違いないと思います。
だからこそ、ちゃんと教育しないといけないということだと思うんですね。ここで、「寝た子を起こすな」論を考えましょうというワークをしたいと思います。
まず、「寝た子を起こすな」っていうのは、学校とかメディアとか、公的なところで部落問題を取り上げずにそっとしておいたら、みんなが知らなくなって部落差別は解消するという意見です。部落問題だけではなく、性教育なんかでも、「子どもに性教育するから子どもたちの性行動が若年化する」と。だからもう性教育不要というような意見もあったりします。
「寝た子を起こすな」についてのグループワーク(大阪府人権協会編『あたりまえの根っこ』を参考にしたワーク)
課題を見抜く力
ありがとうございます。「知る・教える」ことと「知らない・教えない」というこの二つの違いを私なりに考えていきたいと思います。やはり、知らないことのメリットってあんまりないんじゃないかと出していただいたように、「知らない・教えない」が描く像ってなかなか明確にしにくいですよね。
「知らない・教えない」ことでどういう風に差別がなくなるのかっていうのは、わかりにくい。教える方が分かりやすいんですね。さまざまに社会の変革につながるし、自分自身の変革につながっていくっていう視点なんだと思います。
結局「知る・教える」が描く像は、みんなが部落問題を異化していて部落出身だということを明示したとしても、差別の対象とされない社会です。それは他の人権課題の解決につながっていく可能性があって、いわゆる教材になるわけです。たとえ部落差別が本当に解決しても教えることにそれなりに意味があるのではないかと思うのは、また、いろんな人権課題を見抜いていく力になる可能性があるということだと思います。
また、個人でも知るということはいいこともありますし、葛藤でもあるんですよね。その葛藤を超えて、差別しない態度を獲得するのは、部落問題だけじゃなくて、他の人権課題にも対応できる力が付く可能性もあります。ただ、「知らない・教えない」は、差別がなくなるというわけではなくて、みんなが忘れてしまうということなんですよね。
忘れてしまおうとしても、インターネットを観たらもう忘れられへんよっていう部分もありますし、また、部落出身者に対したら「隠す」っていうことを強いられる社会なんですね。言うか言わないかを選んで、言わないっていう選択肢と、「隠す」は選択肢じゃないんですよ。とにかく言わない選択肢しかない中での社会生活っていうのはすごくストレスフルです。ほかの人権課題の解決には全然力を持たない、そういう風な部分ではないかと思います。
私自身は知らない、教えないで、「寝た子を起こすな」の意見が目指す像は、差別がない社会とは違うんじゃないかと私は思っています。
隠すしかなかった
今住んでいるのが兵庫県なんですけど、両親はそれぞれ兵庫県内の被差別部落の出身です。私自身は部落に住んだことがないんですね。両親は部落から出て部落外でずっと生活してきました。部落出身であるということは、とにかく隠すしかなかった。
私自身は実は18歳になるまで知らなかった。おじいちゃん、おばあちゃんのところで牛を飼って、これはお肉になる牛やって言うこともある時期になったらわかってるんですけど、気づいてたかもしれないけど、とにかく考えないことにしていました。
血筋が違う
隠して生きることが部落の外で暮らす部落出身の家族の生き方だったという風に思っています。大学生の時に母親から言われるのが、そのままの言葉ですけど、「うちは血筋が違うから、親せきにお肉屋さんしてる人がいるとか、皮革業してる人がいるっていうのは絶対隠せ」という言葉でした。ただ、血筋が違う人なんてどこにもいませんよね。みんな違うと言えば違うわけで。ただ母が言っているのは、うちだけ特別に悪い血筋なんだという言い方なんです。私の世代は学校ではすごく部落問題学習を受けた世代なんですよ。その時にはあくまで他人事でしかなくて、18歳の時に初めて自分の事として部落問題が迫ってきたわけですね。はっきり言って私はすごくショックを受けるわけです。
今思うとそんなショック受けんでもよかったやんって思うんですけども、やっぱり18年間のうちにいろんなところで、私は空気を吸うように部落差別を意識するようなイメージを自然に獲得してたんだと思います。もちろんその「血筋が違う」という言葉自体もショッキングなんですけど、私自身がすごくしんどく自分自身が部落出身をどう受け止めていいのかっていうのをすごく悩んだのが、18歳から大学生活を通じてだったと思います。
外側からの暴力
祖母は文字の読み書きもほとんどできない状況で、母も学校には、小学校の低学年くらいまでしか通えていなくて、家の用事ばかりしていて、学ぶという機会がなかった。その母がなぜ「血筋が違う」という言葉でしか言えなかったのかについて、私は母の学歴の低さであるとかを考えることもなく、そんな言葉で言うなんて教養のない人やって彼女を軽蔑していました。その後自分で部落問題やいろんな人権課題に出会っていくことでわかってくることがあるんです。差別、虐待やいじめや貧困、ドメスティックバイオレンスもそうなんですが、いわゆる外側からの暴力ですよね。それが何度も繰り返していくと自分の中に入ってきて、例えば自分で、自分はやっぱり血筋が違うんやって思ってしまうんですよ。マイノリティって。いわゆる「内面化」というものです。
その母が、私自身に言った「血筋が違う」というのは、母自身が獲得した言葉ではなく、差別する人が母に投げかけてきた言葉なんだということを気づくにはずいぶん時間がかかりました。
マイノリティはそれを自分で取り込んでしまって、それが内的抑圧というもので、差別や人権侵害は人から自尊感情を奪うわけです。その後、いろんな人権課題に出会って、それがわかっていくんですよ。どのマイノリティもいったんそんな思いになってしまう。それを跳ね返すっていう人間には回復力があったりするんですけども、他者からちゃんと認められるっていう関係性を得ないとなかなか跳ね返すということに繋がらないということも後々わかるようになりました。
マイクロアグレッション
マイクロアグレッションという言葉を聞かれたことはあるでしょうか。マイノリティに対して、意図してるか意図してないかは別として、敵意や侮辱を含んだような些細でありふれた日常的な差別言動っていう風なものなんです。例えば黒人の学生に「黒人やのに知的やね、頭いいね」っていう風に言う。やっぱり黒人に対しての一つのステレオタイプを作ってしまっている。
アメリカで育ったアジア系の人に、「どこから来たん?英語上手やね?」っていう。おそらく在日朝鮮人の方も日本で同じように言われた経験がおありかと思います。「日本語うまいね」って。当たり前やん日本に住んでんのに、って思うんですけども。
また、部落問題でも、例えばある人から、「部落って怖いところだと聞いた。だからここは治安が悪いんですよね」みたいな、あからさまに差別意識があるという風に言い切れないんだけれども、でもやっぱりそこには敵意とか侮辱とか言うものが含まれているので、マイノリティにとってはずっと自尊感情を削られるような経験です。
あからさまな悪意はわかりにくいので、それに対してことごとく反論すると過剰反応という風に言われてしまう。また、悪意のある差別は、それ差別でしょうって言ったらみんなも同意してくれるから、ある意味すぐにその発言はやむわけです。でもマイクロアグレッションは差別の意図が表面化しにくかったり、あまりにも日常的な些細な言動であるので、放置されることの方が多く、どんどん肥大化していく可能性があるんです。だからこそ、問題の表れ方をきっちりと理解していく必要があるという風に言うことができると思います。
差別の3つのあらわれ方
もう一つ、金明秀さんの「レイシャルハラスメントQ&A」という本に、差別には3つのあらわれ方があると書かれています。本当はもっと複雑なものなんですが、ここではそれをごく単純化してお話します。まず一つ目はある属性を持つ人たちを見下す、上下関係の差別。二つめは仲間外れ、排除の差別。これら二つは案外わかりやすいです。三つめがいわゆる無視とか不可視化とか他者化というもの。
私はこの3つ目がすごく大事だと思っています。女性は男性より劣っているから、大切な仕事は任せられへん、賃金は低くて当然っていうのは見下しです。
黒人は白人より知能において劣る、というと明らかな侮蔑感を伴います。排除は、部落の人と自分の子を結婚させるなんて許されへんみたいなやつです。
ここまではわかりやすいんですが、無視、不可視化というのが分かりにくい。けれども、大事な視点だと指摘されています。それはある属性を無視したり、迷惑なものととらえたり、根源的に異なる、例えば男と女は別の動物やみたいな言い方もそうです。また、障害者に対して必要な合理的配慮を否定したり、その人の出身国や、所属する共同体の問題をその人個人に責任があるかのようにする、あるいは本人の承諾なしに属性を公表するというようなものも含まれます。
そういう風に3つ目のあらわれ方を念頭に置くと、「寝た子を起こすな」もこの不可視化に入るじゃないかと思うんです。見えない状態にするわけでしょう。
そう考えていくと、この「寝た子を起こすな」は差別の克服をめざしているという風にとらえるべきではないんではないか。悪意はなかったとしても、差別の一形態につながるような考え方ではないのかなという風に私自身は考えています。だからこそ、部落問題を見下しや排除だけではなくて、もう一つの視点をもって見ていく必要があるんじゃないかなと思うんですね。
ネット上のアウティング
もう一つの点としては、インターネット上のアウティング。アウティングというのは勝手に地名とか個人名を晒す問題ですけど、その前に間違った情報がたくさん出てますよっていうことです。これはある研究団体が調査したところヤフーの知恵袋というのを同和問題という言葉が含まれているもの、たぶん上位1000件くらいを調査されたら、その知恵袋に相談した回答の7割が差別的だったということなんですね。
ですから半分以上が差別的な情報である可能性があるということを考えると、やっぱり見る側が試されている。その情報が正しいかどうかっていうのは知ってないとわからない。また、インターネットって自分で検索して、いろんな情報を拾っているようで、実は似たような考え方をずっと検索しているとそれが上位に挙がってきたりするんですよね。
だからすべての情報を網羅していなくて、結構偏った情報を網羅している可能性もある、そういう媒体だという風にも思います。
あともう一つ、同和地区Wiki、いわゆる地区名が一覧になっていたりとか、個人名が了承も取らず一覧表になっていたりとか。ネット上で地区名や個人名がアウティングされているということです。「部落探訪」といって紀行みたいな体裁や、研究の一貫なんだという理屈付けをしながらインターネット上で動画が公開されている状況もあります。
それらの行為は、一見、「可視化」しているように見えるんですけども、可視化では決してない。可視化は、私が自分でやります。カミングアウトも私がやります。
他人が私の承諾も得ずにやっているということで、本来であれば私が必要なときにカミングアウトする権利をある意味奪ってしまうことで、やっぱり部落出身っていう属性を晒しものにしている。さっきの「差別のあらわれ方」でいうと、「不可視化」や「他者化」にあたる行為です。
もう一つ、2年前の法務省の通知です。これは豊中市の職員の方はよくご覧になっているかもしれません。これは、インターネット上に先ほどのような部落の地名なんかがバンと出ている、それをなるべく削除要請するようにしてくださいね、というようなことを法務省が地方法務局などに対して通知したものです。
内容自体は積極的なというか、意味のある部分もあるんですけど、私が気になるのは、この「部落差別はその他の属性に基づく差別とは異なり、差別を行うこと自体を目的として、政策的・人為的に創出したものであって、本来的にあるべからざる属性に基づく差別である。また、このような不当な差別の対象とされる人々が、集住させられた地域であるかつての同和地区は差別の対象を特定するための地域概念とされてきたものである。」
これ、行政の方も読んで、ほんまか?って思いませんか?同和地区ってこんな風な形で地区指定されたわけではありません。まず、差別を行うこと自体を目的として、政策的・人為的に創出っていうのは、これ政治起源説だと思うんですけど、今この政治起源説っていうのはほぼ克服されているし、近現代の問題が一切抜け落ちてしまってるんです。部落問題っていうのは、近代社会の中で再編されていく。本当に強烈な差別意識が近代社会に出来上がっているんですね。そういうことがすっぽり抜けています。
また、これでいくと、部落出身が「あるべからざる属性」に基づくとなるとって、「私はおったらあかんのか」ってこれを読んだときに思いました。この見解が見通す将来像は、部落出身って名乗っても差別されない社会と異なる像なのではないかと。
部落差別解消法って4年前にできてるんですけど、あの中には実は部落差別の克服の定義は一切出てこないんです。部落差別が何かも定義されいません。部落問題が克服された姿なども含めて、もっといろんなところで論議していかないといけないと思います。
差別のない状態
これからの人権教育を含めてですけど、まず部落差別の現れ方、先ほどのような不可視化とか他者化みたいな、そういう部分も含めてよく知ることが大事です。それは部落差別がない社会はどういう社会なのかを明確にしていくことが大事です。人権教育や同和教育の中で、ここをめざして教育するねんでっていうところが大事です。
例えば女性問題の解決っていうのは、女性問題をみんなが知ったうえで女性が不利にならない社会なわけで、それは障害者問題でも外国人問題でも一緒なはずなんですよ。人権問題の解決の方向性っていうのは必ず共通項があるので、まずはそれをちゃんと自分自身も含めて、また子どもも含めて理解したうえで、教育を進めていくっていうのが実は大事です。もう一つは、部落出身を言っても差別されないっていう風にこれまで言ってきてるんですけど、もっと言うと部落出身でも幸せに生きられる社会、ハッピーでいられる社会、っていう風に、私はもっともっとそこを豊かにしていきたいなっていう風に思っているんです。なんか部落出身の人も楽しそうやなっていう風に思ってもらいたいくらいです。
カミングアウトさえ必要のない社会
実際に私自身は、部落出身っていうのは、私の属性の一つにすぎませんけども、18歳で部落出身っていうことが分かって以降の方がいろんなことが分かるようになってきた。例えば18歳の時に母から言われてなかったら、私の生きる人生、とんでもない人生じゃなかったかもわかりませんけども、今の方が楽しいなと思うわけです。部落出身である私の方が楽しいなとか、生きがいがあると言ったら変なんですけど、そういう風に思うんです。そういう意味では、そこをもっともっと豊かにしていきたいなと思います。もう一つは、カミングアウトを出来る社会。それはセクシュアルマイノリティの人たちも言うんですけど、究極の目標は、カミングアウトさえ必要のない社会だと思っています。カミングアウトは実は、すごい勇気いるんですね。このような講演などでいうこと自体は全然決心もいらないんですけど、本当に身近な関係性で、私部落の外に住んでるので、隣の家の人に言うなんて、一番ハードル高いです。うちの子どもたちも、部落を校区に含んでいない学校に通っていますので、そこの保護者のなかでカミングアウトするのも、めちゃくちゃハードル高かったです。でも言ってきました。そのカミングアウトするときに、いつ言うのかどんな風に言うのかにずいぶん悩みました。それって実はとても大変な気苦労の連続なんですよ、実は。そのカミングアウトをするかしないかを選べる社会はいいんですけど、一番の理想形はあえて言う必要もない社会ではないかと思います。もちろんその前には、カミングアウトできる社会にならないといけかせんけど。
素敵な当事者と出会う
もう一つは、部落問題を学ぶということが、積極的な意味を持つことを、これはぜひとも学校の先生には伝えてほしいと思います。部落問題は部落の人たちの問題ではなく、社会全体の問題です。部落問題を教え込もうとするからしんどいのであって、普遍的な視点で、いろんな人権課題との、もし人権教育という枠組みでするのであれば、なおのことですけど、部落問題の底流に流れる普遍的な視点もぜひ折に触れながら進めてもらいたいともいます。
あと、私は、部落出身でありながら、いろんな人権課題にもかかわってきて、そこで出会う当事者の人がすごく素敵なんですね。例えばハンセン病問題でいろんな当事者の人と出会ってきました。部落出身という経験からはとてもじゃないけど想像できないような体験を教えてもらう。それは世の中のさまざまなことに想像力を働かせるすごく豊かな出会いです。そういう意味では、人権課題に出会ったりとか、そのマイノリティの当事者と出会うというのは、自分の人生をより深いものにしていく、そういうものだということも伝えてもらいたいと思うんですね。また、部落問題では部落出身者はこのマイノリティの立場からしか言えないんですけど、ぜひ部落出身じゃない方が、部落問題を例えば学校で教えるんだったら、逆に部落出身じゃないからこそ言えることってたくさんあると思うんですね。先ほども言った、自分が部落問題と出会ってどんな風に考えが変わったとか、部落出身者のこういう人と出会って、自分はこういう素敵な思い出があるとか、失敗談でもいいんですけど、そういう風なことをぜひ伝えてもらいたいなと思います。
部落問題の何を問うのか
近畿大学の熊本理抄さんがその著書(『被差別部落女性の主体性形成に関する研究』)で提起していることがあります。例えば、女性差別だと、ジェンダー規範を問います。障害者問題だと優生思想を問います。外国人問題だったら、例えば人種主義とか植民地主義を問うんですね。いわゆるほかの人権課題は社会の枠組みを問います。
でも、部落問題はいったい社会の枠組みの何を問うねん、というところなんです。部落問題は、部落の問題っていう風に思われがちなのは、そこがあまり明確にされてきてなかったから。本当はさまざまなものと部落問題を解決する時に闘ってきてるはずなんですよ。例えば家意識であったりとか、家制度であったりとか。そういう風に社会の枠組みの何を変えようとするのか、それが部落問題を知ることによって、私の価値観、こんな風に変わりましたとか。例えばジェンダーの問題と出会うと、凄く視界が広がったりします。それは見方が変わるから。価値観を問われるからなんですけど、そういうところ、部落問題はいったい何を問題にするのかっていうのは、実はあまり研究者が理論構築できてきてなかった部分だと思うので、これは私や次の世代の人たちの課題として持っていくべき部分かなという風に思います。
私のカミングアウト
先ほどもお話したとおり、私は18歳の時に親から言われた言葉が本当にすごいショックだったんですね。重たい石を肩にがんと乗せられたような、すごく重苦しい時間をしばらく過ごして、島崎藤村の「破戒」を読んでみたりとか、水平社宣言を読んでみたりとか、とにかく部落問題についてどういう風に受け止めていいのかで混乱しました。部落の外に住んでいるので、相談できる人もいませんでしたし。
そしてあるとき、私は意を決して高校時代の親友に手紙を書いたんです。いわゆるカミングアウトをしました。自分が部落出身であるということを書いた手紙を投函しました。「あなたと絶交します」とか、そんな返事来るわけないのに、そんなことを変に考えてしまったり、とにかく不安な思いでした。
その後、友達にすごく素敵な言葉をもらったので、いろんな人にカミングアウトするようになりました。例えば大学でできた友人にもすぐに自分が部落出身やって言う風に言いました。大体返ってくるのは、「君が部落出身なんて僕は気にせえへんで」とか、「君が部落出身なんて関係ないで」っていう言葉です。
その言葉に悪意はないし、確かにこれで救われたという人もいるので、全否定するつもりないんですけど、私はこだわってるから言ってるのに、気にしないとか関係ないって、なんとなくスルーされている感じもするし、「〇〇なんて気にしないとか、関係ない」の「〇〇」ってあんまりいい言葉がはいらないですよね。
ただ、一番初めにカミングアウトした友達は「一緒に考えよう」って私に言ってくれたんです。彼女からの返事には「私も部落問題のこと知らないから、これからは宮前さんと一緒に考えたいと思う」という言葉でした。私はそれまで部落出身というのをどう位置付けていいかわからなかったんだけども、とりあえず彼女に承認してもらえた。部落出身っていう属性を私の一部という風に認めていいんだと。そこから私が自分で勉強してみようって思って、自分も勉強するっていうことから始まりました。この言葉に出会ってなかったら、おそらくここにいなかったと思いますし、またぜんぜん違うところで生活していたんじゃないかなという風に思ってるんですね。
私は一緒に考えてくれる人と出会えて、その後の人生が大きく変わりました。たとえば学校の先生方は、このようなカミングアウトを受けたときに、どんな言葉を返せる子どもたちを育てていけるのか、ということも人権教育で考えていかなければいけないテーマだと思います。
どうもありがとうございました。
当報告の無断転載・複写を禁じます。ご希望の方はとよなか人権文化まちづくり協会までご連絡ください。