1.あゆみ

豊中の部落解放運動や同和行政・同和教育を語る際に寺本知さんに触れないわけにはいきません。その歩みや人となりについて は自著はもちろんさまざまな人によって語られていますからここで改めて述べる必要はないと思いますがその足跡を紹介しておきます。なお敬称は省かせていただきます。

寺本知は 、父由太郎・母ミツエの第1子として、1913(大正2)年9 月13日に生まれた。兄妹は6人ですべて妹。

克明尋常小学校に1919年(大正8)年4月入学し卒業するも、病弱で尋常高等小学校には進まず、以後独学で教養を身につける。
豊中水平社は1923(大正12)年に創立されるが、父由太郎は中心メンバーであった。その時9歳 、父や今西弥之助らの影響のもと成長する。

15歳で青年団に入り 、山口賢次の薫陶を受け、この頃から水平運動に参加する。
1930(昭和5)年、17歳で豊中町雇、翌年書記となる 。1933(昭和8)年には高松差別裁判糾弾の全国部落代表会議に参加する 。1931(昭和12)年古書籍業を営む傍ら、夜学勉強会で下村輝雄・島田実などの若者を指導する。全水第15回大会1938( 昭和13年11月23日)では、大会防衛の任にあたり、竹槍を持ち官憲の弾圧をはねのけ、無事大会を成功させる。
1941(昭和16)年、豊中市南新免区の資源調整指導員となり、同和奉公会主催の同和事業指導者講習会に、同和奉公会大阪府本部嘱託として参加する。1942(昭和17)年には同和奉公会大阪府本部主事補となる。

1944(昭和19年)4月10日、父・由太郎告別式の日に、霊前で谷中英美子と結婚の盃を交わす。

10日後には英美子の父親が逝去。召集令状が来て6 月1日に入隊するも、痔病で即日帰還、兵役猶予になる。翌日病院で即日手術 と言われるも手術せず、24年後に手術し、ようやく痛みから解放される。9月に大阪府同和事業事務嘱託となる。このころ西光万吉と出会い、西光の親戚である信行寺に同道し夜っぴて語り合う。その後も2回、信行寺に同道する。
敗戦後の1945(昭和20)年11月19日に、大阪府の書記になる。1946(昭和21)年2月、京都新聞会館で開かれた、全国部落代 表者会議・部落解放人民大会に今西安太郎・下村輝雄と出席する中、「部落解放全国委員会」が結成される。

大いなる刺激を受け、3月には「人民解放豊中青年同盟」を結成する。名前は青年同盟ながら、旧自治会の役員全員、お年寄りも参加、村ぐるみの組織として出発した。

この勢いをバネに、和島岩吉や高松直一ら20数名の参加を得て、信行寺で部落解放大阪青年同盟の第1回準備会を開く。「部落解 放大阪青年同盟」の創立大会は、同年8月4日で、運動方針の、「部落経済革新の急務について」を提案説明、そして副委員長に 選出される。戦後の解放運動を牽引したのは豊中の青年であったが、とりわけ寺本はその中心にいた。同月に、大阪府の地方事務官となり、翌年には、大阪府厚生課主事となる。
同年、大阪朝日会館での民藝「破戒」上演に、観劇活動を通して運動を再建しようとして協力するも、部落内ではなかなかチケッ トが売れず、阪急梅田駅などで立ち売りをするなど苦労する。
1948(昭和23)年には、府職員でありながら、部落解放大阪青年同盟を組織した中心人物ということで、依願退職という形で、大阪府を馘首され、古書籍店文苑堂(魂の糧を売る店)を経営することに。部落解放第3回全国大会では中央委員に選出される。
1947(昭和22)年、山口賢次がシベリヤから復員、すぐに解放運動の戦列に復帰。翌年愛媛県宇和島市の八幡神社の祭礼で、暴 力団により死傷者がでる差別事件が起きる。山口は中央本部のオルグとして宇和島に向かう。残された家族の生活を、寺本たちが苦労しながら支えた。
1951(昭和26)年8月、北摂山荘で大阪府同和地区中堅青年指導者講習会が開催される。

その夜、府の同和事業を促進させるための準備小委員会を作り、会合を重ねて、12月に「大阪府同和事業促進協議会」創立大会 を開き、常任理事となる。豊中の地でも取り組みを進め、1953(昭和8年5月に豊中市同和事業促進協議会の創立を果たし、常 任理事に就任する。府同促も市同促も組織化中心的役割を果たしたのは、寺本であった。青空子ども会を発足させ、子どもたちの 育成に力を入れていた矢先の、1955(昭和30)年1月に、新大阪新聞に南新免の差別記事が掲載された。糾弾に取り組むと共に、児童館建設に力を尽くし、10月に開設された児童館の、運営委員会委員を務める。
朝日新聞が1956(昭和31)年1月に掲載した石上玄一郎の「文壇論」の差別性を指摘し糾弾する。朝日新聞に、部落問題をタブーにせず、前向きに差別の現実に向き合うと約束させ、マスコミによる部落問題の初めてのキャンペーンである「部落・三百万 人の訴え」を人権週間に連載させた。
1957(昭和32)年には、部落解放同盟常任中央委員会で「運動方針討議委員会」委員になり、第12回全国大会で中央本部の統制委員になる。1958(昭和33)年の第54回中央委員会では議長をつとめる。
同年には、克明小学校のPTA副会長になると共に、岡町商店街会長にも就任する。また、「豊中文学」を創刊し、小説「黒い雪」を発表する。翌年の「豊中文学」4号に小説「閑古堂日録」を発表する。1959(昭和34)年5月、豊中市同和事業促進協議会の会長に就任する。1961(昭和36)年に発足した同和更生資金制度の運営委員になる。
1963(昭和38)年には古書籍店を閉じ、喫茶「ドラン」をオープンする。そして、豊中市議会議員選挙に立候補し当選、以後連 続6期務め、副議長や会計監査などを歴任する。翌年には、豊中商工会議所商業連合部会長になる。
部落解放同盟大阪府連合会の会計監査に1965( 昭和40)年に就任し、統制委員には1967(昭和40)年に就任する。同年、再建大会を開いた豊中支部の支部長になる。大阪府同和地区企業連合会設立総会で会計となる。1969(昭和44)年には、豊中市同和対策審議会が設置され委員となる。また、大阪府同和金融公社設立総会で監事となり、1970(昭和45)年には理事長となる。 大阪府同和事業促進協議会の会長に1971(昭和46)年就任し、以後25年間務める。

1972(昭和47)年、部落解放同盟第27回全国大会で、中央本部の会計監査となり、翌年には会計を務め、1974(昭和49)年には統制委員、再度1978(昭和53)年に会計となる。1979(昭和54)年には文化対策部長に就任し、部落解放文学賞は第5回1978(昭和53)年から実行委員長をつとめる。

克明小学校の発行文書に差別的な表現があることを指摘し、校区内の各種団体を網羅した克明小学校をよくする会を、1972(昭和47)年に発足させ副会長になり、部落差別を地域ぐるみの課題とする。同年、岡町商店街振興組合の初代理事長になる。
大阪府同和対策審議会の委員には1973(昭和48)年になる。1975(昭和48)年には、差別と闘う文化会議が結成され、会計になる。豊中市同和住宅入居者選考委員会が1976年(昭和51)年発足し 、委員になる。豊中市同和対策事業住宅新築資金等貸付審査委員会の委員になる。
豊中で文化講座を1975(昭和50)年から始める。
講師には野間宏・水上勉・灰谷健次郎・小田実らを招く。
1981(昭和56)年に詩集「焦心疾走」を発刊する。1982(昭和57)年が全水創立60周年になり、松本冶一郎記念館も落成する ので、「松本冶一郎胸像」を作成しようということになる。世界的な彫刻家の佐藤忠良に依頼することを寺本が提案し、針生一郎に依頼したが、仕事が詰まっているからと断わられた。そこで、千里の国際美術館でロダン美術館での個展の帰国展が開かれているので 、直接依頼をすることになり、上杉佐一郎書記長など4~5名で行くことになった。寺本は講演を聞くために一人先に出向き、会場で佐藤忠良に偶然に出会い依頼するも断られる。そこで発刊したばかりの詩集「焦心疾走」を、義弟の湯田寛の挿絵を見てやってくださいと差し出すと、じっと見ていてしばらくして、「ロダンのバルザック像みたいなのでよかったらやりましょうか」と言われた。すかさず 「それでお願いします」と返事を返した。ロダンのバルザック像は今でこそ有名な彫刻だが、制作当 時は似ていないからということで、注文主が気に入らず受け取らなかったという、曰くつきの名品である。寺本が佐藤の意図をしっかりと受け止められたからこそ生まれた胸像である。
第2詩集「にんげん」発刊は1986(昭和61)年。1994(平成6)年に「寺本知のとわずかたり  にんげんはすばらしい」発刊。
1982(昭和57)年から大阪人権歴史資料館リバティおおさかの常務理事になり、1990(平成2)年からは館長になり、1995( 平成7)年リニューアル・オープンは館長として記念式典をおこなう。
1988(昭和63)年に大阪府文化芸術功労賞を受賞する。祝う会での寺本の感謝の言葉のなかに「ほんとうの芸術というものは、大地から草の根から花ひらくもんだと考えているんです。ほんとうの芸術は、人民たちから、はたらく人びとからつくっております。」「ぼくが部落解放運動やるのも、文学に打ち込むのも、たいしたことはできませんが、人間の解放をねがってやってることなんです」とある。

また同年には、野間宏が朝日新聞社の「朝日賞」を受賞する。野間本人から、介添人にと依頼され贈呈式に臨む。佐藤忠良も一緒に受賞していた。1991(平成3)年野間宏逝去、1992(平成4)年「野間宏の会」の発起人になる。
「文化とは人間の解放である」と反差別の立場からの文化運動を訴え続けてきたが、1996(平成3)年1 月28 日意識不明になり、2月7日に逝去する。享年82歳。
豊中では1月12日の市同促新年互礼会、大阪では26日リバティおおさかでの発展こんだん、そして国の地域改善対策協議会会長の視察来館に対応したのが、公的な最後の姿となった。

2.ことば

亡くなる4ヶ月前、1995(平成7)年10月7日に開催された豊中支部第29回定期大会で次のようにあいさつしました。

も う 82 才 に な り ま し た。 こ の 間 、タ ク シー に 乗 って お り ま し て、 若 い 青 年 の 車 が 追 突 し た ん で す。 そ れ か ら4~5 日 は 病 院 に 行っ た り で や は り 首 筋 あ た り が お か し い で す。

敗 戦 ま で の 水 平 社 は 悪 戦 苦 闘 で あ り ま す。 山 口 賢 治 と い う 素 晴 ら し い 措 導 者 が お り ま し た が、 自 殺 し ま し た 。家 へ 遊 び に い った ら 、特 高 刑 事 が 来 て 連 れ て い か れ る の を 目 撃 し た こ と が あ り ま す 。今 西 弥 之 助 と い う 素 晴 ら し い 方 も お り ま し た 。そ う い う 方 々 が 何 の 報 酬 も な い 中 で 闘 って き た わ け で す 。部 落 解 放 同 盟 に な って、 ど う に か 組 織 ら し い 組 織 日 常 活 動 が で き る よ う に な っ た ん で す 。
  部 落 解 放 運 動 と い う の は 、 人 間 を し て 本 当 の 、真 の 人 間 に す る 運 動 な ん で す よ 。
行 政 闘 争 や 物 取 り 闘 争 と は 違 う ん で す ね。 差 別 者 に 対 し て も 人 間 と し て 対 処 し て い る わ け で す。 部 落 解 放 運 動 は 温 か い 心 で 豊 か な 人 間 に す る た め に や って い る ん で す よ 。美 し い 音 楽 を 聞 い た ら
美 し い、 美 し い 美 術 作 品 を 見 た ら 美 し い 、そ う い う 目 が 養 わ れ て こ な い と だ め な ん で す 。本 当 に 解 放 さ れ る と い う こ と は、 豊 か に 楽 し く 生 き る と い う こ と な ん で す 。
  大 阪 府 庁 に お る 時 に、 部 落 解 放 大 阪 青 年 同 盟 を 作っ た ん で す が、 僕 一 人 が 知 事 室 へ 行っ て、 知 事 に 会 わ せ 言 う て も 、会 わ し て く れ ま せ ん。 一 人 ひ と り の 力 って の は し れ て る ん で す 。だ か ら 、団 結 が 大 事 な ん で す 。み ん な 手 を 握 り 合 う こ と が 大 事 な ん で す。 み な さ ん ど う か 今 後 も 固 く 手 を つ な い で、 温 か い 人 間 に なっ て く だ さ い 。