「退職」を前に

今日は3月26日(木曜日)です。私の出勤日は残り1日、31日を残すのみとなります。

44年間(中抜け10年あり)、「この仕事」に携わってきましたが、人生の大部分を占めているわけですから、それなりの感慨が湧いてきてもいいとは思いますが、不思議と平静で平常心です。

まあ、「仕事」としては終わるわけですが、それでもって全てが終わるわけではありません。4月以降も豊中支部(解放同盟)の用務の関係で、週に1~2度は「事務所」に出入りすることになっているからかもしれません。

44年前に「市同促」に勤めた頃は、運動と事業は一体で、事務局員はみんな掛け持ちでしたし、その境目もはっきりはしていませんでした。そういうことが認められていた古き、よき時代でした。

それが、「運動と事業の分離」という時代になり、改変が進み、運動体(解放同盟)は後継に退き、事業体(豊中では市同促、現「協会」)が表を仕切るようになっていきました。良くも悪くも、時代の流れに沿った対応であったと思います。

そして、「特別措置法」の失効(2002年)を機に、運動体は急速に影響力をなくし、部落問題に対する社会的関心も潮が引くように薄れ、それまでとは別世界が出現し、かつての栄光と繁栄は語り草になっていきました。

一方、部落問題と部落差別をめぐる様相は、表向きは激変したものの、一皮めくれば、さまざまなレベルで差別がうごめくという状況にはさしたる変化はありませんでした。しかし、表向きの「変化」は、「同和」行政からの後退・撤退の口実となり、「同和」から「人権」への移行が一気に進みました。

そうした中で、豊中市は、かたくなと言えるほどにそれまでの基本姿勢を堅持してきました。そういう意味では、稀有な自治体であり、「人権」のトップランナーであったと言えると思います。しかし、さすがの豊中市もいつまでも持ちこたえることはできず、今般の「見直し」に至りました。

私個人としては、この間の出来事、市の対応には我慢がならないところが多々ありますが、それもこれも、もはや済んだことです。願わくは、市には「初心を忘れてほしくない」と思いますし、部落差別をとらえる確かな眼力をもってほしいと思います。そのためには、「協会」との協働作業が不可欠になるはずです。

部落問題の属性とも言うべき、「当事者性」と「歴史性」と「地域性」、これらを備えているのは、唯一「協会」であることをしっかり踏まえてほしいと思います。同時に、それらは地域(ムラ)およびそこにくらす人々とその運動との確かなつながりによって担保されていることを忘れてはならないと思います。

「部落差別がある限り、『同和』行政を推進する」という市の基本姿勢に変わりがないのであれば、そのことを施策や言動によって示してほしいと思います。

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